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リストマーク 日本のステキな城・城址めぐり ~福井城址の巻~ 

2010年05月01日 ()
さて、去る3月、友人の結婚式に参列するために訪問した福井県。
前々回、前回と福井鉄道に注目して記事を書きましたが、たまには鉄道から外れてみようと思います!


JR福井駅(クリックで拡大/解除)…と言いつつも、スタートはやっぱり駅じゃないと、ってことで、こちらは福井駅。
そしてこれから目指す場所は、徒歩10分ほどの福井城址ですよ!
ちなみに、こちらが城址のある側の西口です。

(クリックで拡大/解除)



JR福井駅・東口(クリックで拡大/解除)その前にちょっと東口へ行ってみると…北陸新幹線の高架橋が工事完了のままで待機モードです!

待機モードが解除されるのはいつの日になるんでしょうかね?

(クリックで拡大/解除)


おっと、本題を外れてしまいました。
てなわけで、福井城址へ行ってみましょう!


【関連リンク(■)・過去記事(□)】
福井市公式サイト
□魅力ありすぎ! ローカル私鉄で行く福井の旅
  福井鉄道編1(2010.4.22) | 同2(2010.4.26)
  えちぜん鉄道編1(2010.5.10) | 同2(2010.6.1)
□これまでのお城めぐりシリーズ
  浜松城(2010.4.10) |岡崎城(2010.4.8) | 高岡城址(2010.2.17)
  小松城址(2010.1.29) | 彦根城(2007.11.22) | 松本城(2007.9.8)
  二条城(2005.8.27)

さっそく福井城址(クリックで拡大/解除)駅から歩いて本当にすぐの場所に、福井城址はありました。
こちらは、唯一内堀に車が入れる橋である御本城橋(読み方は「ごほんじょうばし」でいいのかな?)が架かっており、実質的に正面入り口となってます。

(クリックで拡大/解除)


福井城自体は江戸時代の終わりまで存在してましたが、天守は1669年消失と、割と昔に無くなっています。
そしてその跡地には福井県庁と福井県警察本部。
城が政庁の役割を持っていたことを考えれば、まさに現代の城と言っても過言では無さそうですw

あと、すっごくどうでもいい話ですが。
駅前の中央大通りの交差点から、橋を渡って写真の真ん中の突き当たりまで、約150mが福井県道176号線になってますが、県庁が起終点の県道って割と無いような気もします。
他に珍しいのだと、県庁の周りをぐるっと一周する栃木県道64号とか。一周する必要ないだろw


さっそく福井城址(クリックで拡大/解除)御本城橋を歩いていると、内堀と石垣と白く染まった山々という、なかなかオツな景色を眺めることができます。
しかしここまで綺麗な石垣も珍しいような。
それにしても真ん中の白いビルが邪魔だな

(クリックで拡大/解除)


では、内堀の中へと入っていきましょう!


さっそく福井城址(クリックで拡大/解除)橋を渡るとすぐ目に入るのが、福井藩初代藩主で越前松平家の祖・結城秀康公の像です!

秀康公も戦国武将のご多分に漏れず波乱万丈な人生を過ごした人で、かの徳川家康の次男として生まれ、のちに人質として豊臣秀吉の養子となり、さらに秀吉に子供(鶴松)が生まれたら下野国・結城家の養子となる…そんな不遇な人生を送りつつも、器量もあって度量も広い人だったそうで、弟である2代将軍・秀忠よりも武勇に優れていたとか。

(クリックで拡大/解除)



関ヶ原の戦いでは、昨年の大河ドラマで一躍有名になった直江兼続を配下に持つ上杉景勝軍の南下を阻んだことで、戦後の論功行賞では石高が一番加増されて越前北ノ庄67万石となり、松平姓を賜ったとされています。
(ただし生涯を結城姓で通したという説もある)


さっそく福井城址(クリックで拡大/解除)つまり何が言いたいかっていうと、こんな良い人が来た福井の民は幸せ者だって事だよ!
(※その後の代については言及しません)

という話はさておき、福井県庁と福井県警という福井県の最大にして最強の公権力に囲まれて若干ビクビクしながら、天守跡へと上がっていきます。
(県警本部と言えども制服組の方もいらっしゃいましたので・・・)

(クリックで拡大/解除)



ところでこの福井城址、けっこうマメに整備されてまして、こんな感じで階段には手すりもあるし、案内の看板もあるし、こういう観光資源を最大限有効活用しようという姿が見受けられて、好感度アップですw


福井城天守跡(クリックで拡大/解除)こちらがその天守跡。
先ほども申し上げましたが、天守は1669年消失。
ってことは、天守跡は何百年もずっとこの状態だったのかな?

あと福井城は完全に平城なので、天守跡に上っても景色は期待してはいけませんw
代わりにベンチがあるので、のんびりするにはもってこいですよ!

(クリックで拡大/解除)


ちなみに消失後は、櫓を天守代わりにしていたそうです。
最近では、その櫓を復元しようとするプロジェクトもあるそうで、財政難な昨今ではありますが、ぜひ頑張ってほしいところだなと思います。
なお、さきほどの内堀と石垣の写真の辺りが、その櫓(巽櫓)のあった場所らしいです。


そしてこの天守跡には、「福井の原点」とも言うべきものがあるんです!

福井城天守跡(クリックで拡大/解除)それがこの井戸。
ただの井戸と思うなかれ、この井戸は「福の井」といって、「福井」の名前の由来になった井戸なのだ!

(クリックで拡大/解除)


元々は「北ノ庄」と呼ばれていた福井ですが、天守焼失前の1624年、福井藩3代藩主・松平忠昌の「『北』は敗北に繋がるから変えちゃえ♪」との鶴の一声で「福居」に変わり、最終的には「福井」になったそうな。
(この辺の話は諸説あるらしいです)

地元・東三河の豊橋市が昔は吉田だったのを、明治になって藩知事が「幕府にとっとと降伏した伊予吉田藩と同じ名前なんてイヤ!」と言って豊橋藩に変えてるし、そんなにあっさり地名を変えていいものなのかって感じですがw


さて、天守跡台へ上った後は、福鉄市役所前駅に戻っていくのですが、福井城址の最後の見所は、意外にも「橋」にあった!


福井城天守跡(クリックで拡大/解除)こちらは、城址西側にある御廊下橋
「ごろうかばし」と読めばいいのかな?

こちらはその名の通り、屋根付きの渡り廊下がそのまま橋になっているのです!!
2年ほど前に福井城址整備事業の一環として、御廊下橋の復元整備が完成したそうな。

(クリックで拡大/解除)


お城で廊下橋というと思い浮かぶのは、彦根城の多聞櫓前に架かる廊下橋ぐらいかなと思うんですが、彦根城は屋根も壁もない状態。
一方こちらの福井城址の御廊下橋は、復元といえど屋根も壁も忠実に再現されていて、あまり見受けられないその風景が面白いです。


…ということで、福井城址を歩いてみました。
城址と言えども、そこは歴史の1ページを刻んだ場所であることに変わりはありません。
往時を偲びつつ歩いてみれば、違った視点、新しい感動が生まれるんじゃないかなー、と思います!

もう今年は終わっちゃいましたが、桜の時期には石垣のライトアップもあるそうで、福井市内を流れる足羽川の桜並木と合わせて、福井の春の景色を楽しむのもアリですね。


【今回の余談】
さっそく福井城址(クリックで拡大/解除)なんと、愛知県の私学の雄の1つ、愛知大学が福井駅に広告を出しておりました。

正直、福井の地で愛知大学の名前を見るなんて思いもしませんでしたw
福井の場合だと、割と関西方面へ進学することが多いのかな~、と思っていたので…。

どっちにしろ「PROJECT2012」って言っても福井の皆さんには分かんないですからw

(クリックで拡大/解除)


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[2010.05.01(Sat) 00:14] 2010年のおでかけTrackback(0) | Comments(4)
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結城秀康は大河ドラマになりませんねェ~! by HINAKA
HINAKAです。

べるく様

結城秀康は、本当にじみィ~な人だったらしく、良く言えば謹厳実直、悪く言うと?目立たぬ人。
だったのか、小説の主人公にも殆どなっていない……と言うより、彼の事を記した書物や記録がなさ過ぎる!ようです。
ただ、生涯秀忠は「兄じゃ」と慕い自分よりも2代目将軍にふさわしいと考えていたようですが、秀康は「自分は豊臣家の人間ふさわしからず」と受け付けなかったようです。まァ、家康が認めなかったのでしょうが。
その為か、生涯徳川家を示す「松平」の姓を名乗らず、結城で通したとか。とにかく、影日向に何かと父家康に比較されて、立場の弱い秀忠を助け、特に今度大河ドラマの主役になる「お江様」こと秀忠夫人(秀忠は生涯正式な正室は彼女だけで、側室も持たなかったと言われています)娘を、強引に天皇に(現在に至るまでの最後の女天皇)する手前、前の天皇の后以外が産んだ子を認めぬ、政略だとも言われています。

ただし、後年のように大奥が隔絶する以前の、まだ戦国武家屋敷の女房として、政治にも軍事にももちろん私事にも口を出し、その為に秀忠は女房の「尻に敷かれた2代目」と陰口を叩かれましたが、ともすれば偉大過ぎる父親、優秀な兄に挟まれて、弱気な秀忠をもり立てた脅威の姐さん女房(3代家光と弟の確執の元凶のように言われていますが、あの豊臣秀頼に嫁いだ千姫の母親でもあります。娘は3人くらい生んでいるのでしょうか?姐さん女房としては、立派なモノ?です)その、賢夫人が病に倒れ、他界した時に秀忠は京都にいて、傍にいられなかった事を、悔いたそうですが、そんな弟を真っ先に励ましたのが、他ならぬ秀康だったそうです。

信長の妹お市の方の、3人の娘の次女で、一度は他家に嫁いだモノの、豊臣家との絆を深めたい家康の配慮で、離婚してまで秀忠の正室となった、お江の方の流転と悲哀の人生を、より理解しその夫人に頼った弟の気持ちが分かるのは、やはり終生結城姓を名乗ったという、秀康公ならではないかと思います。

さらに、与えられた福井はかの前田利家の領地、江戸時代最大の外様大名だった加賀前田藩の目の前!
如何に家康が、前田家を恐れると同時に、秀康を信用していたかが、これだけでもよく分かります。もっとも、2代目以降徳川家から降嫁する姫を正室に持つ事が、伝統となった前田家と、外様でありながら家康直系の血筋を誇る、越前福井藩はすっかり仲良くなった……ようです。
明治維新も、手を取り合って乗り切り、現在まで脈々と続いているそうです。

それにしても本当に、秀康公のお話は聞きません!
ただ言えることは、前田家共々、決して時流に逆らわず、常に自分の地位と財力を保ちながら、穏やかにしかも自分達が統治中は、飢饉や疫病を乗り切り、他藩に比べて遙かに豊かに、領民は生活していたそうです。
これは、どちらの藩も2代目以降は、武よりの文を重んじ、芸術芸能や新田開発品種改良を、重んじた結果だそうです。

もしかしたら福井城が、堅固な要塞でもなく、他を圧する威容を誇るでもなく、穏やかな城として築かれたのも、その辺に理由があるのかも知れません。
詳しい事が分からない、歴史の跡を辿る事こそ、却って歴史ロマンを掻き立てます。羨ましく、思いました。

その為の長文、お許し下さい。


解説に多謝です! by べるく@管理人
コメントありがとうございます!
HINAKAさまのお詳しい解説・考察に、ただ感服するばかりです。

なるほど確かに秀康公は目立つ存在ではなかったにしろ、その後に続く人たちへの礎となっていたのは間違いないのかな、という気がします。
実際、江戸時代の福井は人口4万人前後だそうですが、他の都市と比較してもかなり発展した街だったみたいですね。
そして今でも出生率や教育水準が高い(らしい)ことを鑑みると、連綿と地道な発展を続けているのが福井なのかなと思います。
江戸時代は封建的な強権的トップダウン行政ですから、藩主がしっかりしてると、その統治意識が民衆に広がって、良い影響を与えるのでしょうね。

HINAKAさまのおっしゃるとおり、分からないからこそ想像を膨らませることがより楽しくなる。
歴史ロマンの醍醐味はまさにそこにあると私も思います!

嬉しいです by 福井の人間
福井県をブログの中で取り上げていただきまして本当にありがたい限りで嬉しいです。
福井は、戦争中は名古屋と同じく空襲にあいました。そして戦後すぐに福井大震災というものがありまして、昔の建物(江戸明治大正昭和)などはほとんどが現存していません。

昔の福井城は、幾重にもわたって大変立派な威圧感のある外堀があったのですが、今は本丸を残すのみとなりました。この福井城は、結城秀康が築城したのですが秀康が茨城の結城から来た時に多くの町人、商人や僧侶などがやってきたといわれております。そしてその影響は現代においても様々なものに存在しております。

また幕末においては、福井では松平春嶽をはじめ多くの福井藩の志士たちが活躍いたしました。坂本竜馬も春嶽に会いにきたと言われています。

面白い話を一つ言います。この城の付近でニホンオオカミが射殺されたのが日本オオカミの最後の一匹だと言う話。本当かどうかは、その剥製が空襲で焼失してまして今では確認が出来ません・・・・

さて、福井と愛知の繋がりは深いですよ。かの有名な織田信長の織田家発祥の地は、福井県の織田町です。この間、スケートの織田信成選手が福井の織田家ゆかりの神社に参拝にこられました。また徳川家も、元をたどりますと福井と言われております。
それから大学に関しては、福井からは関西への進学も多いのですが愛知県への大学進学も多いんです。逆のパターン愛知から福井への大学進学も福井県の中においては多いです。

今後も福井県をよろしくお願い致しますね。

コメントありがとうございます! by べるく@管理人
>福井の人間さま
このような中途半端な記事に、大変ありがたいコメントを頂きまして、恐縮です(苦笑)
ありがとうございます!

そういえば、訪問した際はフェニックス通りの名前の由来が全然分からなくて不思議に思っていたんですが、空襲、地震、九頭竜川堤防決壊と、終戦前後3年で壊滅的な被害を被っていたんですね。
確かに古い町並とかは無いかもしれませんが、それ以上に精神的伝統というか、心が受け継がれているというのを福井からは感じますし、それはとても羨ましいことです。
しかし最後のニホンオオカミが福井の市街地にいたかも…、というのは面白いですね!

織田信成選手のニュースを前に見たような気がしますが、確かに愛知と福井は縁が深いですね。
福鉄と豊橋鉄道の電車が一緒なのも、縁かもしれません。(まあ名鉄つながりなんですけど)
距離は近いのに知らないことが多く、また地味と評されることが多い福井ですが、私個人としてはとても心を惹かれる県だなぁと思います。
これからも福井にはどんどん行ってみたいです!

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HINAKAです。

べるく様

結城秀康は、本当にじみィ~な人だったらしく、良く言えば謹厳実直、悪く言うと?目立たぬ人。
だったのか、小説の主人公にも殆どなっていない……と言うより、彼の事を記した書物や記録がなさ過ぎる!ようです。
ただ、生涯秀忠は「兄じゃ」と慕い自分よりも2代目将軍にふさわしいと考えていたようですが、秀康は「自分は豊臣家の人間ふさわしからず」と受け付けなかったようです。まァ、家康が認めなかったのでしょうが。
その為か、生涯徳川家を示す「松平」の姓を名乗らず、結城で通したとか。とにかく、影日向に何かと父家康に比較されて、立場の弱い秀忠を助け、特に今度大河ドラマの主役になる「お江様」こと秀忠夫人(秀忠は生涯正式な正室は彼女だけで、側室も持たなかったと言われています)娘を、強引に天皇に(現在に至るまでの最後の女天皇)する手前、前の天皇の后以外が産んだ子を認めぬ、政略だとも言われています。

ただし、後年のように大奥が隔絶する以前の、まだ戦国武家屋敷の女房として、政治にも軍事にももちろん私事にも口を出し、その為に秀忠は女房の「尻に敷かれた2代目」と陰口を叩かれましたが、ともすれば偉大過ぎる父親、優秀な兄に挟まれて、弱気な秀忠をもり立てた脅威の姐さん女房(3代家光と弟の確執の元凶のように言われていますが、あの豊臣秀頼に嫁いだ千姫の母親でもあります。娘は3人くらい生んでいるのでしょうか?姐さん女房としては、立派なモノ?です)その、賢夫人が病に倒れ、他界した時に秀忠は京都にいて、傍にいられなかった事を、悔いたそうですが、そんな弟を真っ先に励ましたのが、他ならぬ秀康だったそうです。

信長の妹お市の方の、3人の娘の次女で、一度は他家に嫁いだモノの、豊臣家との絆を深めたい家康の配慮で、離婚してまで秀忠の正室となった、お江の方の流転と悲哀の人生を、より理解しその夫人に頼った弟の気持ちが分かるのは、やはり終生結城姓を名乗ったという、秀康公ならではないかと思います。

さらに、与えられた福井はかの前田利家の領地、江戸時代最大の外様大名だった加賀前田藩の目の前!
如何に家康が、前田家を恐れると同時に、秀康を信用していたかが、これだけでもよく分かります。もっとも、2代目以降徳川家から降嫁する姫を正室に持つ事が、伝統となった前田家と、外様でありながら家康直系の血筋を誇る、越前福井藩はすっかり仲良くなった……ようです。
明治維新も、手を取り合って乗り切り、現在まで脈々と続いているそうです。

それにしても本当に、秀康公のお話は聞きません!
ただ言えることは、前田家共々、決して時流に逆らわず、常に自分の地位と財力を保ちながら、穏やかにしかも自分達が統治中は、飢饉や疫病を乗り切り、他藩に比べて遙かに豊かに、領民は生活していたそうです。
これは、どちらの藩も2代目以降は、武よりの文を重んじ、芸術芸能や新田開発品種改良を、重んじた結果だそうです。

もしかしたら福井城が、堅固な要塞でもなく、他を圧する威容を誇るでもなく、穏やかな城として築かれたのも、その辺に理由があるのかも知れません。
詳しい事が分からない、歴史の跡を辿る事こそ、却って歴史ロマンを掻き立てます。羨ましく、思いました。

その為の長文、お許し下さい。

[ 2010.05.01(Sat) 14:40] URL | HINAKA #no8j9Kzg | EDIT |

コメントありがとうございます!
HINAKAさまのお詳しい解説・考察に、ただ感服するばかりです。

なるほど確かに秀康公は目立つ存在ではなかったにしろ、その後に続く人たちへの礎となっていたのは間違いないのかな、という気がします。
実際、江戸時代の福井は人口4万人前後だそうですが、他の都市と比較してもかなり発展した街だったみたいですね。
そして今でも出生率や教育水準が高い(らしい)ことを鑑みると、連綿と地道な発展を続けているのが福井なのかなと思います。
江戸時代は封建的な強権的トップダウン行政ですから、藩主がしっかりしてると、その統治意識が民衆に広がって、良い影響を与えるのでしょうね。

HINAKAさまのおっしゃるとおり、分からないからこそ想像を膨らませることがより楽しくなる。
歴史ロマンの醍醐味はまさにそこにあると私も思います!
[ 2010.05.01(Sat) 21:40] URL | べるく@管理人 #- | EDIT |

福井県をブログの中で取り上げていただきまして本当にありがたい限りで嬉しいです。
福井は、戦争中は名古屋と同じく空襲にあいました。そして戦後すぐに福井大震災というものがありまして、昔の建物(江戸明治大正昭和)などはほとんどが現存していません。

昔の福井城は、幾重にもわたって大変立派な威圧感のある外堀があったのですが、今は本丸を残すのみとなりました。この福井城は、結城秀康が築城したのですが秀康が茨城の結城から来た時に多くの町人、商人や僧侶などがやってきたといわれております。そしてその影響は現代においても様々なものに存在しております。

また幕末においては、福井では松平春嶽をはじめ多くの福井藩の志士たちが活躍いたしました。坂本竜馬も春嶽に会いにきたと言われています。

面白い話を一つ言います。この城の付近でニホンオオカミが射殺されたのが日本オオカミの最後の一匹だと言う話。本当かどうかは、その剥製が空襲で焼失してまして今では確認が出来ません・・・・

さて、福井と愛知の繋がりは深いですよ。かの有名な織田信長の織田家発祥の地は、福井県の織田町です。この間、スケートの織田信成選手が福井の織田家ゆかりの神社に参拝にこられました。また徳川家も、元をたどりますと福井と言われております。
それから大学に関しては、福井からは関西への進学も多いのですが愛知県への大学進学も多いんです。逆のパターン愛知から福井への大学進学も福井県の中においては多いです。

今後も福井県をよろしくお願い致しますね。
[ 2010.05.02(Sun) 00:07] URL | 福井の人間 #- | EDIT |

>福井の人間さま
このような中途半端な記事に、大変ありがたいコメントを頂きまして、恐縮です(苦笑)
ありがとうございます!

そういえば、訪問した際はフェニックス通りの名前の由来が全然分からなくて不思議に思っていたんですが、空襲、地震、九頭竜川堤防決壊と、終戦前後3年で壊滅的な被害を被っていたんですね。
確かに古い町並とかは無いかもしれませんが、それ以上に精神的伝統というか、心が受け継がれているというのを福井からは感じますし、それはとても羨ましいことです。
しかし最後のニホンオオカミが福井の市街地にいたかも…、というのは面白いですね!

織田信成選手のニュースを前に見たような気がしますが、確かに愛知と福井は縁が深いですね。
福鉄と豊橋鉄道の電車が一緒なのも、縁かもしれません。(まあ名鉄つながりなんですけど)
距離は近いのに知らないことが多く、また地味と評されることが多い福井ですが、私個人としてはとても心を惹かれる県だなぁと思います。
これからも福井にはどんどん行ってみたいです!
[ 2010.05.03(Mon) 15:01] URL | べるく@管理人 #- | EDIT |

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